
推薦コメント
推薦コメントをいただきました。。
- 1るんげさん(肉汁サイドストーリー)
- 劇団ドラハさんは、不思議な劇団だと思います。
私の勝手なイメージですが、劇団ってどういう経緯で結成したにしろ「その劇団の」オーラのようなものを劇団員が纏うものだ、という気がするのです。学友同士で結成したにしろ、団員公募の結果結成したにしろ、何かしら「ああ、ここの劇団員ぽいなあ」というオーラが各々の劇団員に出てくる。
ところが、ドラハさんにはそういった「ドラハというオーラ」をあまり感じないのです。結成してまだ若いからかな? とか、様々なバックボーンを持つ人がいるからかな? も思ったのですが、どうやらそうでもなさそうだなと思います。
断っておくと、オーラとはあった方が良いとか、ないとだめだとかは思っていません。むしろオーラがあるから良くないという場合だってあると思います。学生時代を思い出してほしいのですが、「交流があるわけじゃないけど、なんか嫌な印象のグループ」が一つくらいあった、という人は多いのでは。あれもオーラが自分と合わない、ということが一因としてあるんじゃないかと思います。
ドラハさんの話に戻ります。
「ドラハというオーラ」をあまり感じない理由として、おそらくドラハさんは一つの塊としてどう、というより「個人が集まったのだ」ということを(無意識下だとしても)重視されているのではないかと思いました。「私たち!」というよりは、「今、私とこの人とこの人と……」という数量(?)感覚なのではないかということです。それは個人主義とも違っていて、前提として各々がまず個人という不可侵なものとして存在していて、そのうえで「ここにいる必要を感じたタイミングなので、いる」という感じ。
つまり、「私たち」になることを強いていない、ということなのではと感じています。人を縛るものという意味での「ほだし」がない、のような感覚かもしれません。三十人三
十一脚という競技が昔ありましたが(調べたら今はないんですね。驚きました)、ドラハさんは仮に劇団員が三十人いたとしてもお互いの足を紐で縛ったり肩を組んだりはせず、ただせーので同時に走って好タイムを目指しそう、というのが今現在できる一番伝わりそうな喩えです。
ただ決してまとまりがないわけではなく、むしろスッとした、誤解を恐れずに言えば「素直な」まとまりがある。「ここに劇があるので、劇をやりましょうよ」のようなまとまりがあると思います。そりゃ劇団なんだから「劇をやりましょうよ」は当然だろうと思われるかもしれませんが、「私たち」になることでこの「劇をやりましょうよ」の部分に色々な付属品がついてくることもあると思うのです。もちろんそれが悪いことだというわけではありません。そうではなく、ドラハさんの特色として、付属品なしの真っ直ぐな「劇をやりましょうよ」がある、ということです。力んで言うわけでもなく、ただ飾り気もな
く「劇をやりましょうよ」と発している感じがします。
……というような劇団である、という印象を私は持っています。かなり勝手なことを書いたので「そんなんじゃない!」という反論は当然あると思います。ただ私にはそう見えたということです。
ドラハさんは旗揚げ公演『新宿万丁目物語』、次いで私も関わりを持たせていただきました番外公演『サヨナラときわ座公演』うち「銀河恋」および「高田馬場に春くれば」と、それぞれかなり毛色の異なるものを上演されてきたと思います。「私たち」を要求しない劇団だということが、取り組む作品の幅の広さ──それはつまり、劇団としての懐の深さ──に繋がっている面はあるだろうと思います。第2回本公演『阿佐ヶ谷に死す』は『新宿万丁目物語』と同じく松森モヘー氏の脚本・演出作とのことですが、『新宿万丁目物語』とはまた違った「劇団ドラハ」を目にすることができるのではないかと期待しています。
これは私信ですが、阿佐ヶ谷は「豚八戒」という餃子屋さんが美味しいです。